車田先生の日々是世界史 第23回「パレスチナ問題の発端②」

車田先生の日々是世界史

 みなさん,いかがお過ごしでしょうか?久しぶりのブログ更新です。

 年が明けてすぐに日本国内では地震・航空機事故,国外ではウクライナやパレスチナの戦争が拡大し混迷して何かと暗い話題が多いですが,受験生のみなさんは,共通テストも終わり,私大・2次試験といよいよ受験シーズン到来です。健康に留意して受験を乗り切りましょう!

 さて,今回は前回に引き続き「パレスチナ問題」について綴ってまいります。

 1914年7月に始まった第一次世界大戦は,当初,短期間で戦争は終結するものだという楽観的な空気が各国で流れていました。夏に出征する多くの兵士達が,恋人や家族にクリスマスまでには帰還するという事を約束して出征したと言われています。

 しかし,予想に反して戦争は長期化しました。長期化の理由としては,様々な要素がありますが,参戦各国が「総力戦」(戦争遂行のために政治・経済も挙国一致体制をとる)を展開し,新兵器(戦車・毒ガス・機関銃・飛行機・飛行船・潜水艦など)の開発,陸上戦での塹壕戦の展開などがあります。戦争が長期化する中で秘密外交が展開されていきます。

 特にイギリスは,戦局を有利にするために1915年,オスマン帝国領内のアラブ人に対して「フセイン(フサイン)・マクマホン協定」を結びます。「フセイン・マクマホン協定」は,メッカ太守でアラブ人の民族運動の指導者であった「フセイン」とイギリスのエジプト高等弁務官「マクマホン」(この場合の高等弁務官とは,宗主国であるイギリスがエジプトでの施政権(行政権)を与えた高官・責任者のこと)との間でやり取りされた往復書簡です。

 内容は,フセインがオスマン帝国への反乱を起こしてアラブ人がイギリスへの戦争協力を条件に,第一次世界大戦後にアラブ人の独立国家の樹立を支持する約束でした。

第一次世界大戦の様子

 しかし,その裏でイギリスは,1916年に「サイクス・ピコ協定」をイギリス・フランス・ロシア(当時はロマノフ朝ロシア帝国)との間に結びます。

 内容は,第一次世界大戦後にオスマン帝国領をイギリス・フランス・ロシアで勢力範囲を決定し分割,「パレスチナ」に関しては,「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム教」の聖地で分割するのが難しいので,国際管理地とする事を取り決めた秘密協定です。因みに「サイクス」はイギリスの,「ピコ」はフランスの外交官でこの協定を取りまとめた人物です。

 アレアレ…先ほどの「フセイン・マクマホン協定」と何だか矛盾していませんか?この「サイクス・ピコ協定」が表に出てしまいます。1917年にロシア革命が起こると,1918年に成立したソヴィエト政権が「平和に関する布告」を全交戦国に発しました。

 ところが,無視されたためソヴィエト政権は「サイクス・ピコ協定」を暴露しました。当然,アラブ側は話が違うと激怒します。

 さらにもう一つアラブ側を憤激させたのが1917年にイギリス外相の出した「バルフォア宣言」です。内容は,イギリス外相「バルフォア」がユダヤ人協会会長「ロスチャイルド」に宛てた書簡で,戦争が長期化する中でユダヤ人の資金援助を期待して,パレスチナでのユダヤ人の国家建設いわゆる「シオニズム運動」を支持することを約束しました。

 アレアレ…またもや矛盾していますね!またもやイギリスの二枚舌三枚舌外交です。当然アラブ人側は話が違うと激怒します。

 なにせ第一次世界大戦中には映画「アラビアのロレンス」でも有名なイギリス軍情報将校のローレンスが「フセイン・マクマホン協定」を結んだフセインの息子ファイサルと提携してオスマン帝国軍と戦っていました。ローレンスの行動が第一次世界大戦後脚色されて映画化されたのが「アラビアのロレンス」です。

ワジの様子。「アラビアのロレンス」に登場するヒジャーズ鉄道はいくつかのワジ(涸れ川)を渡る

 ローレンス自身は,英雄化されたことに相当悩んでいたと言われています。この事はNHKの「映像の世紀バタフライ」の「砂漠の英雄と百年の悲劇」で放送されているので一度見てみるといいかもしれませんね。

 第一次世界大戦後,現在の中東地域はどうなったのでしょうか?第一次世界大戦に敗北したオスマン帝国と連合国との間に「セーヴル条約」が1920年に結ばれると,中東地域は事実上イギリスとフランスによって分割されてしまいます。

 国際連盟の委任統治領という形で,現在のイラク・トランスヨルダン(ヨルダン)・パレスチナはイギリスが,シリア・レバノンはフランスが委任統治領としました。パレスチナ以外の地域は,第二次世界大戦後までに独立することができました。

 フランスの委任統治領であったシリアは,1936年に自治権が承認されて1946年に完全独立を,レバノンは1941年に独立を宣言し1943年に独立が承認されます。イギリスの委任統治領であったイラクは,1921年に王国が成立して1932年にファイサルが国王として即位してイギリスの委任統治が終了しました。トランスヨルダンも1923年に委任統治下で独立して1946年に完全独立を達成しました。

 しかし,パレスチナだけは独立することができませんでした。第一次世界大戦後,安住の地を求めたユダヤ人が数多くパレスチナに移住をしてきました。

 当初,アラブ人とユダヤ人はパレスチナで共存できていました。ところが,ユダヤ人の移住者が増加するとユダヤ人のコミュニティが形成されて次第にアラブ人との対立が生まれてくるようになります。

 特に,1933年にドイツでナチス政権が成立して,ユダヤ人に対する迫害が激化すると多くのユダヤ人がパレスチナへ移住してくるようになってアラブ人との対立が激化しました。そうした中,1939年から第二次世界大戦が勃発してパレスチナ問題は棚上げ状態になっていきます。

 第二次世界大戦後に成立した国際連合でパレスチナ問題が取り上げられて,「パレスチナ分割案」が決議されてユダヤ人の国家「イスラエル」が建国されたことで現在も継続しているパレスチナの問題が起こりました。

 今回はここまで。次回,第二次世界大戦後から現在まで続くパレスチナの問題を綴っていこうと思います。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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