車田先生の日々是世界史 第13回「東西冷戦の展開(1950年代~1960年代前半)」

車田先生の日々是世界史

世の中少しずつ気温が高くなり夏が近くなってきましたね。

みなさん,いかがお過ごしでしょうか?

今回も,前回に引き続き1950年代~1960年代前半の冷戦の展開について綴っていきます。

 1945年に第二次世界大戦が集結して以降,ヨーロッパやアジアでは米ソの対立が激化していったことは,前回紹介しましたね。

ヨーロッパでは1949年にソ連によるベルリン封鎖が解除されると,ドイツ占領地区が東西に分断され,西側占領地区には「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」が,東側占領地区には「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」が,それぞれ建国されました。

アジアではインドシナ戦争が激化し,朝鮮半島では北緯38度線を境にして北に「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」が,南に「大韓民国(韓国)」が,それぞれ建国されて分断国家が成立しました。

中国では国共内戦の結果,1949年に中国共産党による「中華人民共和国」が建国されました。

東西両陣営の対立は1950年代になっても激化していました。しかし,1953年にソ連の指導者であったスターリンが死亡すると,少しずつ米ソの対立が緩和されていきます。いわゆる「雪どけ」ですね。

 ソ連では,「スターリンの死」によって「フルシチョフ」が指導者となると,それまで「スターリンの独裁体制」だった政治を,複数の指導者の合議によって行う「集団指導体制」へと変更しました。

さらに1956年のソ連共産党第20回大会で,フルシチョフが「スターリン批判」を行い,「平和共存政策」が打ち出されると,東側諸国に動揺が出てくるようになりました。

例えば,1956年ハンガリーやポーランドでは反政府反ソ暴動が発生し,中国とソ連の間は「中ソ論争」が開始されました。

ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー 第34代アメリカ合衆国大統領

 西側諸国では,1953年にアメリカ大統領に「アイゼンハワー」が就任すると,「巻き返し政策」で東側諸国との武力衝突も辞さない強硬な立場をとって,日本や西ヨーロッパ諸国との連携を強化していきました。

日米安全保障条約太平洋安全保障条約(ANZUS)東南アジア条約機構(SEATO)バグダード条約機構(中東条約機構)などが結成されました。

その一方で,ソ連が「平和共存政策」を打ち出すと「雪どけ」と言われる米ソ間の緊張緩和の機運が生まれ,1955年にはアメリカ(アイゼンハワー大統領)・イギリス(イーデン首相)・フランス(フォール首相)・ソ連(ブルガーニン首相)による「ジュネーヴ4巨頭会談」が開催されました。

東西両陣営の首脳が第二次世界大戦後,初めて会談したため「雪どけ」の象徴とされたのですが,実際には東西ドイツ・朝鮮半島・インドシナ半島(ベトナム)の分断など,冷戦状態が追認されたに過ぎませんでした。

 1950年代半ば以降になると,「第三世界(第三勢力)」と言われる米ソ両陣営どちらにも属さないグループが現れました。

1954年,中国首相の周恩来とインド首相のネルーが会談を行って,「平和五原則」(領土保全と主権の相互尊重,相互不侵略,相互の内政不干渉,平等と互恵,平和的共存)を発表すると,

1955年,周恩来・ネルー・ナセル(エジプト大統領)・スカルノ(インドネシア大統領)らの主導によってインドネシアのバンドンで第1回のアジア=アフリカ会議が開催されました。

この会議には,日本を含む29カ国が参加して,反植民地主義を基本とする「平和十原則」(基本的人権と国連憲章の尊重,主権と領土保全の尊重,人権と国家間の平等,内政不干渉,単独・集団の自衛権尊重,大国有利の集団防衛排除,武力侵略の否定,国際紛争の平和的解決,相互の利益・協力促進,正義と国際義務の尊重)を決議しました。

また,1956年にはエジプトのスエズ運河国有化宣言を契機に第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発するなど「第三世界」をめぐる紛争も起こっています。

1959年9月「フルシチョフ」が,ソ連の指導者として初めて訪米し,「アイゼンハワー」とキャンプ=デーヴィッドで会談し「雪どけ」が進展するかに思われました。

しかし,1959年1月にキューバ革命が起こると米ソの緊張が再燃します。

カストロ(左)とその盟友ゲバラ(右)

1960年アメリカのU2型偵察機がソ連領空に侵犯して撃墜されると,この年にパリで開催される予定だった米ソ首脳会談が流会となりました。

またキューバ革命で成立した「カストロ」政権に対して,「アイゼンハワー」政権は,1961年1月にキューバと断交し,さらに「ケネディ」政権になると4月に亡命キューバ人のキューバ侵攻を支援しましたが,失敗しました。

5月には「カストロ」政権が社会主義宣言を行うと,1962年1月に「ケネディ」政権は,アメリカ州機構(OAS)からキューバを除名しました。

キューバの「カストロ」政権は,ソ連に援助を求め,代償としてキューバにソ連のミサイル基地を建設することを認めました

「ケネディ」政権は,10月にキューバのソ連ミサイル基地の存在を公表し,海上封鎖を宣言すると,米ソによる核戦争の危機が全世界に広まって緊張が高まりました。

結局,ソ連の「フルシチョフ」が譲歩し,アメリカのキューバ侵攻断念(カストロ政権の維持)を条件にミサイル基地を撤去して「キューバ危機」は回避されました。(「13DAYS」というタイトルで映画化されていますよ)

 「第三世界」は,1961年にユーゴスラヴィアのベオグラードで,ティトー(ユーゴスラヴィア大統領),ナセル,スカルノ,ネルーらの呼びかけで第1回非同盟諸国首脳会議を開催しました。この会議では,非同盟主義(東西両陣営のどちらの軍事同盟にも参加しない),平和共存,反植民地主義が主張されました。

 1950~60年代前半は,東西の緊張が緩和されたと思いきや,60年代に入って緊張が再燃して「キューバ危機」で緊張がピークに達しました。

その一方で,東西両陣営とは違う動きをする「第三世界」も現れて,世界は徐々に「多極化」していくようになります。

 今回はここまで。続きは次回,1960年代半ば~80年代の世界に持ち越します。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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