車田先生の日々是世界史 第21回「イスラーム世界の発展」

車田先生の日々是世界史

久しぶりのブログ更新です。だいぶサボってしまいました。ゴメンナサイ🙇

この間にパレスチナでも大規模な戦闘が起こってしまいました。イスラエルとハマス双方に主張がありますが,戦闘で一番の犠牲になっているのが通常の生活を送っていた人々です。早く通常の生活を送れることを祈っています。

みなさんも遠い国の話ではなく、いつ何時に私たちもパレスチナと同様の事態が起きるかもしれないという事を考えてみてください。

前回は,「イスラーム教」の成立について綴りました。今回は,パレスチナで現在起こっている事を知るうえで重要な「イスラーム世界の発展」について綴っていきます。

 「ムハンマド」が「ヒジュラ」によって「メディナ」に「ウンマ」を成立させたのが,西暦622年のことでした。イスラーム暦では西暦622年を元年としてます。その後630年には,「ムハンマド」が「メッカ」を征服し,632年にはアラビア半島全域を征服・支配しました。

アラビア半島全域を支配した後,ムハンマドが亡くなると,ムハンマドの後継者としてムスリムの選挙によって「カリフ」が選出されます。

「カリフ」が選出されていた時代を「正統カリフ時代」と呼んでいます。(632~661年)初代アブー=バクル,ウマル,ウスマーン,アリーが「正統カリフ時代」です。

この時期に「イスラーム」勢力は,アラビア半島からさらに領土を拡大してビザンツ帝国からシリア,エジプトをササン朝ペルシアからイラクの一帯を獲得して,662年には「ニハーヴァンドの戦い」でササン朝ペルシアを破って,651年にはササン朝ペルシアを滅ぼしました。

この頃に「コーラン(クルアーン)」が現在の形に編纂されています。(650年頃)

イスラム教の聖典 コーラン(クルアーン)

「ムスリム」は,こうした異教徒との戦いを「ジハード(聖戦)」と呼んで急速に支配地域を拡大していきます。「ムスリム」のアラブ軍が強力だった理由としては,様々な要素が挙げられます。まず,移動する際にラクダを戦闘の際に馬を使い分けたために機動力に優れていました。さらに,砂漠を上手く利用してラクダを使い食料補給し,戦況が不利な場合は砂漠に逃げ込み戦力をキープしました。また,「ジハード」と名の付く戦闘で戦死したとしても殉教者として扱われ,「アッラー」の下(天国)に行けると考えられて死を恐れず士気の高い兵士が多かったと言われています。

その他,征服した民族に「イスラーム教」への改宗を強制せず,「ジズヤ(人頭税)」「ハラージュ(地租)」を支払えば生命・財産を保証したために,解放者と見做されました。こうして「イスラーム」は急速に勢力を拡大していきました。しかし,第4代カリフ「アリー」の時代,シリア総督「ムアーウィヤ」が「カリフ」を宣言して「アリー」と対立し,さらに「アリー」が661年に暗殺をされると「正統カリフ時代」は終焉を迎えました。

 「ムアーウィヤ」は,「アリー」の死後「カリフ」となって「ウマイヤ朝」が創設されると,「カリフ」の地位はウマイヤ家が世襲することになりました。

「ウマイヤ朝」時代,西は北アフリカ・イベリア半島,東はインダス川流域まで支配地域が拡大して大帝国を築き上げました。その一方で,「イスラーム教」は「スンナ派」「シーア派」に分裂します。

シーア派の聖地「カルバラー」の神殿

「スンナ(スンニー)派」は,イスラーム教の多数派で約9割を占めていて,ムハンマドの言行(スンナ)に従うものという意味で歴代の「カリフ」を正統と見做しています。一方「シーア派」は,イスラーム教の少数派で約1割程度を占めていて,第4代カリフの「アリー」とその子孫のみをイスラームの正統な指導者(イマーム)と見做しています。また「シーア派」は,シーア派内でも分裂していて,穏健多数派を「十二イマーム派」,過激少数派を「イスマーイール派」と呼んでおり,現在イランやイラクで信者が多いです。「ウマイヤ朝」までは,アラブ人ムスリムが優遇をされており「ジズヤ」「ハラージュ」が免除されていました。これに不満を抱いていたのが「マワーリー」と呼ばれるアラブ人以外のイスラーム改宗者です。「マワーリー」は,「ジズヤ」「ハラージュ」を課されていたためにイスラームの教え「アッラーの前では信者は平等である」との原則に反するとしてアラブ人に対する不満が高まっていました。

この不満を利用してクーデタをおこしたのが,「アブー=アル=アッバース」で,750年に「ウマイヤ朝」を倒して「アッバース朝」を建国しました。

「アッバース朝」は,建国の翌年751年には中央アジアの「タラス河畔の戦い」で中国(唐)の軍隊を撃破し,その後地中海のクレタ島やシチリア島,サルデーニャ島を征服するなど領土をさらに拡大しました。この「タラス河畔の戦い」で捕虜となった唐軍の兵士の中に紙漉き職人達が多くいたことで,「製紙法」がイスラーム世界に伝播し,バグダードやサマルカンドには製紙工場が建設されて紙が普及したとされています。

「アッバース朝」では,アラブ人ムスリムに「ハラージュ」が課され,マワーリーは「ジズヤ」が免除されて「ムスリム」の税制上での平等化が達成されました。しかし,イベリア半島に逃亡した「ウマイヤ家」の一族が756年に「後ウマイヤ朝」を建国するなど,徐々に「アッバース朝」から自立して各地に独自のイスラーム王朝が成立して9世紀以降イスラーム世界が分裂していきます。

 今回はここまで。次回は,現在進行形で起こっている「パレスチナ問題」をテーマに綴っていきたいと思います。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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