車田先生の日々是世界史 第17回「初期キリスト教・教義の発展」

車田先生の日々是世界史

2023年,新しい年になりました。良い年になるといいですね!

共通テストが終わりました。受験生のみなさん,得点できたでしょうか?

順調だった人は,このままの調子をキープして私大・2次試験に臨んでください。

思った通りにいかなかった人は,何が原因だったのかを今一度確認して,次の受験へと生かしてください。

今回のテーマは,前回に引き続き初期キリスト教・教義の発展に関して綴っていきます。

 「キリスト教」がローマ帝国領内の各地で広まっていくなか,4世紀になってついにローマ皇帝によって「公認」「国教化」されていきます。

「ディオクレティアヌス帝の大迫害」でも「キリスト教徒」は,増加し続け,313年に「ミラノ勅令」でついに「公認」されました。

「ミラノ勅令」は,「キリスト教」を含めて,すべての宗教の信仰の自由を認めた勅令です。

当時,ローマ帝国は,「ディオクレティアヌス帝」が開始した「四帝分治制(テトラルキア)」によって,東方正帝・副帝・西方正帝・副帝による統治で分裂の危機を迎えていました。ローマ帝国の再統一を図るため,西方正帝であった「コンスタンティヌス帝」が,東方正帝「リキニウス帝」とミラノで会見し,ニコメディアで313年に発布したのが,「ミラノ勅令」です。つまり,「キリスト教」を利用してローマ帝国の再統一を試みたのです。

 しかし,その「キリスト教」が教義をめぐる解釈で対立していました。

この頃は『新約聖書』の編纂が行われていた時期です。「コンスタンティヌス帝」は,「キリスト教」の教義を統一すべく325年,小アジアのニケーアでキリスト教初の宗教会議である「ニケーア公会議」を招集し開催しました。

ちなみに「公会議」とは,教会の代表者を集めて行う会議のことです。

「ニケーア公会議」では,「アタナシウス派」を「正統」,「アリウス派」を「異端」と決定しました。

「アタナシウス派」の説は,後に「三位一体説」と呼ばれ,父なる神,子なるイエス,聖霊が同質(等質)であるという考えです。聖霊とは,カトリックの教義においては,神の意志を人に伝えて,精神的な活動へと促す力のことです。

東方教会(ギリシア正教会)では,解釈が異なっていて聖霊は父なる神からしか発生しないとされているなど,なかなか説明するのが難しいですね。なにせ,聖なる霊なので…💦

三位一体とは非常に説明が難しい・・・

一方,「アリウス派」の説は,イエスの人間性を強調して,キリストはあくまでも父なる神によって造られたものと主張しましたが,異端とされてローマ帝国領内から追放されました。

そのために「アリウス派」は,ゲルマン人への布教に力を注いでいきます。この事が,後の「クローヴィスの改宗」へと繋がっていくんですよ。

 キリスト教の公認後,歴代のローマ皇帝は,キリスト教に改宗しましたが,なかには改宗せずに異教の復興を図る皇帝も存在しています。

ユリアヌス帝」(位361~363)は,ギリシア古典に精通していて,古来の伝統宗教を尊重して宗教寛容令を発布して,キリスト教優遇策を廃止しました。

特にペルシアを起源とする太陽神ミトラを信仰する密儀宗教「ミトラ教」の復興を図ったために,キリスト教会から「背教者」(キリスト教の信仰を捨てて,他宗教に改宗・無宗教者となった者)と呼ばれました。

 「アタナシウス派」の説は,381年の「コンスタンティノープル公会議」で「ニケーア信条」として再確認されて完成しました。380年には「テオドシウス帝」によって「キリスト教を国教」とする勅令が発布され,392年にキリスト教アタナシウス派以外の信仰を全面的に禁止して,ついに「キリスト教の国教化」がなされました。

この時期の「ローマ帝国」は,「ゲルマン人の民族大移動」によって衰退の一途をたどっていて,「テオドシウス帝」の死後,395年に東西に分裂しました。「ゲルマン人の民族大移動」については,いずれ綴りたいと思っています。

 このような状況下において,「教父」と呼ばれるキリスト教の著作家たちが,正統教義の基礎の確立に努めています。

エウセビオス」は,ニケーア公会議で活躍して『教会史』や『年代記』など多くの著作を残しました。また,皇帝の支配権が神の恩寵を受けた神聖なものであるとする「神寵帝理念」を唱えたが,この説は,後に「教皇至上権」「王権神授説」に影響を与えています。

アウグスティヌス」は,古代最大の「教父」とされて「教会博士」の称号を持ち,「ゲルマン人の民族大移動」で混乱する「カトリック教義」の確立に貢献しています。主な著作としては,自らがマニ教徒から回収した事を告白した自伝『告白録』や『神の国(神国論)』などあります。

 5世紀に入ると,「ゲルマン人の民族大移動」によって「西ローマ帝国」領内にゲルマン諸国家が次々と建国され,混乱が激化しました。

そうした中で,再びキリスト教の教義を巡る論争が起こりました。431年に小アジアで「エフェソス公会議」が開催されると,「ニケーア信条」が再確認され,さらに「イエス」を産んだ「マリア」を「神の母」と呼ぶことが認められました。

これに対して,「ネストリウス派」は,「イエスの神性」と「イエスの人性」は分離していると主張して,「マリアの神格化」を否定しましたが異端とされました。451年に小アジアで開催された「カルケドン公会議」で,「イエスの神性」と「イエスの人性」の両方が認められて(カルケドン信条),「ネストリウス派」と「単性論」が正式に異端とされました

ネストリウス派」は,追放後,東方に逃れて「ササン朝ペルシア」へ伝道しましたが,「ササン朝ペルシア」では「ゾロアスター教」が国教とされたために,ここでも布教活動が禁止され,さらに東方に逃れて7世紀前半,唐の太宗(李世民)時代の中国に伝播していきました。唐では「景教」と呼ばれ,都の長安には大秦寺が建立されましたが,9世紀に武宗の外来宗教の弾圧(会昌の廃仏)によって衰退しました。

単性論」とは,「イエスの人性」が「イエスの神性」に吸収されて,「イエスの神性」のみを認める説です。シリア教会・アルメニア教会・エジプトのコプト教会・エチオピア教会に継承されました。

こうしてキリスト教の教義が統一されていき,ローマ帝国領内・現在のヨーロッパ地域に広まっていました。しかし,その後も教義の解釈をめぐる論争は絶えずに, 様々な宗派が誕生していきます。

今回は,ここまで。キリスト教の分裂に関しては,いずれかの機会に綴れればと思っております。次回は,インドの宗教に関して,綴りたいと思います。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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