車田先生の日々是世界史 第14回「東西冷戦の展開(1960年代〜冷戦終結まで)」

車田先生の日々是世界史

例年よりかなり早く関東甲信越は梅雨明けしてしまいました。

毎日高気温の日が続いて私はかなりへばっております。受験生の皆さんは,受験勉強順調に進んでいるでしょうか?

今回は前回の続きから冷戦の終結まで綴っていきます。

 1962年の「キューバ危機」が回避されると,翌年以降,米ソの「緊張緩和(デタント)」が進みました。1963年,アメリカ・イギリス・ソ連の核保有国が,地下核実験以外の核実験を禁止する「部分的核実験禁止条約(PTBT)」を調印しました。

しかし,フランス・中華人民共和国(以下,中国)は参加しなかったため,東西両陣営内部での対立が露わになり,いわゆる「多極化」が進んで新たな国際関係が構築されていきます。

東側陣営では,ソ連の「フルシチョフ」が1964年に解任されると,ソ連の指導者に「ブレジネフ」が就任しました。

「フルシチョフ」は,西側諸国との「デタント」を進める一方で,1968年1月にチェコスロヴァキアで「プラハの春」と呼ばれる民主化運動が起こると,ソ連を含むワルシャワ条約機構加盟5カ国は,軍事介入を行い,民主化を阻止しました。

さらに,「ブレジネフ=ドクトリン」で制限主権論を唱えて,東側陣営の締め付けを行いました。

これに反発したのが,中国です。中国は,「フルシチョフ」の「スターリン批判」・「平和共存政策」以降,ソ連に対して批判的な姿勢をとるようになり,非公式の場で中国とソ連が非難しあう「中ソ論争」が展開されました。1969年3月,中ソ国境のウスリー川にある中洲のソ連名ダマンスキー島(中国名は珍宝島)でソ連軍と中国人民解放軍の大規模な武力衝突が起こり,「中ソ対立」へと激化していきました。

西側陣営では,フランスの「ド=ゴール」が第五共和政初代大統領に就任すると,「フランスの栄光」を掲げて対米独自外交を展開していきます。

有名な凱旋門は元軍人であるド=ゴールの栄誉をたたえて名付けられた「シャルル・ド・ゴール広場」にある

「ド=ゴール」は,1962年にエヴィアン協定アルジェリアの独立を認めアジア=アフリカの民族運動を支持し,アメリカのベトナム介入に反対するなど,「第三世界」の歓心を買おうとしました。

また,1964年には中華人民共和国を承認し,さらにソ連・東ヨーロッパ諸国との交流を通して,東側陣営への接近を図りました。

ヨーロッパでは,ヨーロッパを米ソに対抗しうる第三の勢力にすべく「ヨーロッパ経済共同体(EEC)」を1958年に発足させ,イギリスのEEC加盟には断固反対しました。(ヨーロッパの統合については,いずれまた綴りますね!)1966年には,NATO(北大西洋条約機構)の軍事機構から脱退しています。

1965年,「ジョンソン」アメリカ大統領が「北ベトナムの爆撃」を開始して「ベトナム戦争」が長期化すると,貿易赤字・対外援助が増大して財政が悪化しました。

第二次世界大戦後,世界の金の4分の3を保有していたアメリカでしたが,1960年代に「ベトナム戦争」や「新植民地主義」による開発援助によってドルを大量に国外に流出させて金保有量が世界の4分の1にまで低下した結果,「ニクソン」大統領が1971年にドルと金の交換を停止しました。

いわゆる「ドル=ショック」です。

「ドル=ショック」以降,アメリカドルの価値が下降し,国際通貨体制である「ブレトン=ウッズ体制(固定為替相場制)」が崩壊しました。

こうして,1970年代はアメリカの国際的な威信が低下していきます。

フランスを中心としたEC(EECから発展したヨーロッパ共同体)諸国は西側陣営と距離をおく動きを見せました。

1973年,第4次中東戦争でアラブ産油国による「石油戦略」によって「第1次石油危機(オイル=ショック)」がおこると,安い石油資源に依存していた先進諸国の経済に大きな混乱を与えました(パレスチナ問題・中東戦争はいずれどこで綴ります)。

先進諸国は,「第1次石油危機」に対する連絡・調整のために,フランス大統領ジスカール=デスタンの提唱で「第1回先進国首脳会議(サミット)」を1975年,パリ郊外のランブイエで開催しました。アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツ・イタリア・日本の6カ国が参加しています。

 アメリカ大統領「ニクソン」は,ソ連による「プラハの春」介入以降対立していた中国に1970年代前半に接近しました。

1972年,「ニクソン訪中」によって事実上中華人民共和国をアメリカが承認すると,日本も田中角栄首相が訪中して「日中共同声明」を発表して日中国交正常化が実現しました。

その一方で,台湾国民政府(中華民国)は,1971年に国際連合の代表権を失って国際連合から追放されています。

1973年,「ベトナム(パリ)和平協定」が締結されると,ようやくアメリカがベトナムから撤退しました。

米国ワシントンにある「ベトナム戦争戦没者慰霊碑」。米兵だけでも58,000名以上が亡くなった。

また,米・ソ間では1972年に「第1次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ)」が調印されて「緊張緩和(デタント)」が進み,1975年には「全欧安全保障協力会議」でヘルシンキ宣言が発表されました。

ニクソン」大統領が,1974年の「ウォーターゲート事件」を機に辞任すると,70年代後半にはアメリカの国際的地位がさらに低下していきます。

フォード」「カーター」と1970年代後半に大統領が替わったアメリカでしたが,国際的な地位は回復しませんでした。

「カーター」大統領は,「人権外交」(人権を守らない国に積極的に介入)を展開して,1977年にはパナマ運河の返還に合意,78年にはエジプト=イスラエル平和条約の仲介を行い,79年には米中国交正常化を果たしました。

しかし,1979年ソ連軍がアフガニスタンに軍事侵攻すると,米ソ関係は再び緊張していきます。

さらに同年に起こった「イラン革命」の際にテヘランのアメリカ大使館員が人質になり,救出作戦も失敗に終わると,1980年の大統領選挙では共和党の「レーガン」が大統領に当選しました。

「レーガン」は,「強いアメリカ」をスローガンに軍備拡大・対ソ連強硬政策を展開して1980年代前半「新冷戦」と呼ばれる米ソの緊張が再び高まっていったのです。

 「レーガン」の軍拡路線は,「双子の赤字」と呼ばれる財政赤字と貿易赤字を生み出し,アメリカ経済を悪化させていきます。

一方,ソ連は「ブレジネフ」が亡くなると,短期間で指導者が病死によって交替し,1985年に「ゴルバチョフ」が指導者となりました。「ゴルバチョフ」は   ,経済が停滞していた国内で「ペレストロイカ」と呼ばれる改革を進め,市場経済を導入し,1986年に「チェルノブイリ原発事故」が起こると「グラスノスチ(情報公開)」を行いました。また,外交政策では「新思考外交」を展開してアメリカとの協調路線に転換しました。

チェルノブイリ立入禁止区域に今も残る観覧車

 米・ソが接近する中,西側陣営では「日米貿易摩擦」・「拡大EC」・「新自由主義」が展開され,東側陣営では「ソ連軍のアフガニスタン撤退(1988~89年)」・「新ベオグラード宣言」によって「東欧諸国の民主化」・「ベルリンの壁崩壊」がなされた結果,米ソの国際的影響力が低下しました。

そして,1989年12月にアメリカ大統領「ブッシュ(父)」とソ連共産党書記長「ゴルバチョフ」との間に「マルタ会談」が開かれて「冷戦の終結」が宣言されました。

 その後,世界平和に向かうものではないかと期待されていました。(まだ若かった私も期待していましたよ!)

しかし,1990年代に入ると「東西ドイツの統一」「湾岸戦争」「ソ連の崩壊」や各地域での宗教紛争や民族紛争など様々な問題が出てくるようになって,残念ながら混沌とした世界情勢になってしまいました。

今回はここまで。現代の様々な世界情勢については,またどこかで機会をみて綴っていきます。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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