車田先生の日々是世界史 第12回「東西冷戦のはじまり」

車田先生の日々是世界史

みなさん,GW(ゴールデンウィーク)を楽しめたでしょうか?

私は予備校講師となってから,GWやお盆,年末年始といった世間の大型連休とは全く無縁です。毎年受験生のスケジュールなので致し方ありません。

その代わり受験生のみなさんが,大学入試を受験している頃はわりと暇ですが…。

 さて,今回のテーマは,第二次世界大戦後の東西冷戦の始まりについて綴っていきます。

現在もロシアによるウクライナ侵攻が続いており,いつになったら終息するのか分からない状況です。

ロシアのウクライナ侵攻が開始されてから,ロシアを中心とする国を「東側諸国」,アメリカ合衆国を中心とする国を「西側諸国」とマスコミなどでよく耳にします。(私としては,少し違和感がありますが)

元来の「東側諸国」「西側諸国」とは何なのかを今回は綴ります。

 第二次世界大戦末期,連合国がファシズム諸国(日本やドイツなど)に勝利目前となる中,連合国の中でアメリカ合衆国(以下アメリカ)とソヴィエト連邦(以下ソ連)との間で,第二次世界大戦後の世界の主導権争いが起こりました。その対立が激化し、「東西冷戦」が勃発しました。

 第二次世界大戦後,ナチス=ドイツの侵攻を受けた東ヨーロッパ諸国をソ連軍が解放すると,ソ連は東ヨーロッパ諸国を衛星国として次々とソ連型の社会主義政権を成立させて,ソ連の影響下におきました。

この状況に警鐘を鳴らしたのが,イギリスの前首相チャーチルです。1946年3月にアメリカ訪問中にミズーリ州フルトンで有名な「鉄のカーテン」演説を行いました。チャーチルは,「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切って鉄のカーテンが下された」と述べて,このラインを境に東側のヨーロッパ諸国はソ連の強い影響力を受けおり,さらにラインの西側ヨーロッパ諸国にも影響が拡大するおそれがあると指摘しました。

この演説からソ連を中心とする社会主義陣営を「東側諸国」,アメリカを中心とする資本主義(自由主義)陣営を「西側諸国」と総称するようになりました。

かつてベルリンの壁、国境検問所に存在した看板

 「鉄のカーテン」演説にいち早く反応のが,アメリカ大統領トルーマンです。

トルーマン大統領は,1947年3月に「トルーマン=ドクトリン」を発表してギリシアとトルコへの経済・軍事援助を表明し,ソ連の影響力拡大を阻止する「封じ込め政策」を開始しました。

同年6月には国務長官マーシャルが,「ヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャル=プラン)」でソ連を除く全ヨーロッパ諸国への経済援助を発表し,東ヨーロッパ諸国の取り込みを図りました。

しかし,ソ連の傘下にあった東ヨーロッパ諸国は「マーシャル=プラン」の受け入れを拒否し,東西両陣営の対立が深まっていきます。

こうした第二次世界大戦末期から1989年のマルタ会談までの東西両陣営の対立を「冷戦」と呼んでいます。

「冷戦」という言葉が知られるようになったのは,イギリスの作家ジョージ=オーウェルがアメリカの思想家ジェームズ=バーナムの理論を評した時に使用したのを,アメリカの政治家バーナード=パルークが演説で使い,その後1947年にアメリカの政治評論家ウォルター=リップマンが著書『冷戦‐合衆国の外交政策研究』で使用したことから広く一般に知られるようになりました。「冷戦」とは,米ソが直接戦争で対立しない状態のことを示しています。

ジョージ・オーウェルの「1984年」は刊行から60年以上経った今でも多大な影響力を持っている

 ヨーロッパでは「封じ込め政策」の開始後,米ソの対立が激化して1947年9月にマーシャル=プランに対抗してソ連を中心に東ヨーロッパ諸国6ヵ国(ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー・ルーマニア・チェコスロヴァキア・ブルガリア),イタリア,フランスの各共産党が参加した「コミンフォルム(共産党情報局)」が結成されます。(西側諸国陣営のイタリア・フランスの共産党が参加していることに受験では注意してね!)

ただし,「コミンフォルム」も一枚岩ではなく,ソ連と距離をおいて独自路線をとったユーゴスラヴィア(指導者のティトーはナチス=ドイツの支配から第二次世界大戦中パルチザン闘争でユーゴスラヴィアを解放した)は,1948年6月に「コミンフォルム」から除名されています。

1948年2月には当時まだ東西両陣営のどちらにも属していなかったチェコスロヴァキアが,マーシャル=プランを受け入れようとするとソ連の支援によってチェコスロヴァキア共産党がクーデタを起こし,非共産党政権のベネシュ大統領が失脚して共産党政権が成立します。

3月チェコスロヴァキア=クーデタの波及に危機を感じたイギリス,フランス,ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)は,集団的自衛条約である西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を締結して「西ヨーロッパ連合(WEU)」を成立させました。この「西ヨーロッパ連合」が現在の「NATO(北大西洋条約機構)」の基になっているんです。

さらに,同年6月に4カ国(米・英・仏・ソ)分割占領されていたドイツでは,「ベルリン封鎖」が起こります。米・英・仏によって占領されていたドイツの西側占領地区で「通貨改革」によって新ドイツマルクが導入されると,ドイツの東側地区を占領していたソ連が,ソ連占領地区を通過する西ベルリンへの交通路(陸路と海路)を遮断する「ベルリン封鎖」を開始しました。(第二次世界大戦後のドイツは,国土全体が4カ国分割占領されただでなく,東側占領地区に位置したベルリン市は,ベルリン市のみで4カ国(米・英・仏・ソ)分割占領されていたために西ベルリンは飛び地占領となっていました)

孤立した西ベルリン市民に生活物資を届けるためアメリカを中心とする西側諸国は,空輸によって対抗しました。ソ連はアメリカとの全面戦争を避けたため,この大空輸作戦の輸送機を攻撃しませんでした。こうして約1年におよぶ「ベルリン封鎖」で東西両陣営の緊張が高まります。

1949年4月には,アメリカを中心とする西側諸国12カ国(アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・ノルウェー・デンマーク・アイスランド・ポルトガル・イタリア・カナダ)による集団安全保障機構(軍事同盟)である「NATO(北大西洋条約機構)」が成立しました。同年1月にはマーシャル=プランに対抗するために,ソ連と東ヨーロッパ諸国で「コメコン(経済相互援助会議)」が結成されてヨーロッパでの「冷戦」が激化しています。

NATOのマークとソ連の国旗

 アジアにも「冷戦」は拡大しています。アジアでは実際に東西両陣営の軍事衝突が起こり米ソの代理戦争のごとく「熱戦」となってしまいました。インドシナ戦争,中国の国共内戦,朝鮮戦争などです。詳細はまたいずれ綴りたいと思っています。

 こうして1940年代後半から50年代初頭にかけて米ソの対立が激化して,「冷戦」は世界各地に拡大していくのです。今回は,「冷戦」の始まりについて綴ってみました。第二次世界大戦後の世界を知るうえでとても重要なテーマです。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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