車田先生の日々是世界史(第10回 「ロシア・ウクライナの国家の起源」)

車田先生の日々是世界史

前回の更新からかなり時間が経過してしまいました。

2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が開始されました。SNSやTVなどの様々なメディアで取り上げられています。

ウクライナ・ロシア双方とも,大きな犠牲が出ていて市民も多数巻き込まれている状況は,改めて「戦争」について考えさせられます。

ロシア・ウクライナについて何を綴ろうかと,ずいぶんと私自身迷いました。立場が違うと戦争の理由もそれぞれで,一概にどれが正しいのかという判断を早計に下すのは,難しいです。

現在の状況はメディアで報道されているので今回は,ロシア・ウクライナの国家の起源について綴っていきます。

 みなさんは,「ロシア」という国名の起源を知っていますか?

「ロシア」とは英語で表記するとRUSSIAとなります。つまり,ルーシ(ルス)族の国家という意味です。

現在の「ロシア」には,いろんな民族が居住していますが,人口の多くを構成している民族がスラヴ人です。

スラヴ人は,インド=ヨーロッパ語系の民族で言語や地域によって東スラヴ人・西スラヴ人・南スラヴ人に大別されます。

カルパティア山脈の北からドニエプル川流域を原住地としていて,ゲルマン人が西ヨーロッパに移動した後の6世紀以降,東ヨーロッパやバルカン半島に移動して国家を建設しました。

東スラヴ人はロシア人・ベラルーシ人・ウクライナ人などで東ローマ帝国(ヒザンツ帝国)の影響からギリシア正教を信仰する人が多い地域です。

西スラヴ人はポーランド人・チェック人・スロヴァキア人などでフランク王国の影響からローマ=カトリック教会を信仰する人が多い地域です。

南スラヴ人はセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人などで,セルビア人はギリシア正教を,クロアティア人・スロヴェニア人はローマ=カトリック教会を信仰する人が多い地域です。また,バルカン半島一帯は14世紀末以降オスマン帝国の支配下にあったためイスラーム教徒(ムスリム)も多くいる地域で民族・宗教構成が複雑な地域です。

 さて,「ロシア」の国家の起源ですが,9世紀後半(862年)にノルマン人の一派ルーシ(ルス)の首長リューリク(ルーリック)が現在のスウェーデンから移動してきて,ノヴゴロドを中心に「ノヴゴロド国」を建国したことだとされています。

ノヴゴロドの城塞
ノヴゴロドにある城塞(クレムリン)

当時,東スラヴ人の間では部族間での内紛が起こっていてこの混乱を終息するために,リューリクの一族を呼び寄せたとする説があります。ただし,この説にはロシア国内のスラヴ系の人々には反発もあります。

 現在の「ロシア」はモスクワが首都となっていますが,9世紀以前はモスクワよりももっと西方のノヴゴロドが黒海とドニエプル川流域を中継する都市として重要でした。また,9世紀末(882年頃)にノヴゴロド国リューリクの一族されるオレーグが南下し,現在のウクライナのキエフ(ウクライナ語の表記はキーウ)を中心に「キエフ公国」を建国しました。(公国とはどういう国か,以前のブログで紹介しているので参考にしてくださいね!)

この「キエフ公国」ですが,「ノヴゴロド国」と民族的にはほとんど違いはありません。キエフも黒海・バルト海交易の中継地として繁栄しました。10世紀の前半には,「キエフ公国」と「ノヴゴロド国」は統一されて「キエフ公国」として繁栄していきます。

10世紀末(980年頃)にキエフ大公に即位したウラディミル1世は,ビザンツ(東ローマ)皇帝の妹と結婚したことを契機にギリシア正教に改宗して,宗教的に統一されていなかったこの地に「ギリシア正教」を国教と定めて宗教的な統一を図りました。さらに「ビザンツ文化」を導入して国家の整備を行い「キエフ公国」の権威を高めて,11世紀には東ヨーロッパ諸国の中でも有数の国家に発展しました。

ギリシア正教会のイコン画

しかし,13世紀になると「キエフ公国」は悲劇に見舞われます。それは,モンゴル軍による侵攻でモンゴル人の国家「キプチャク=ハン国」による支配です。

1243年にモンゴル軍ヨーロッパ遠征の総司令官であったバトゥがモンゴル高原に帰還するのを諦めて,南ロシア一帯にとどまって「キプチャク=ハン国」を建国したため200年以上南ロシア・東ヨーロッパをモンゴル人が支配する「タタールのくびき」です。

15世紀になりモンゴル人の勢力が弱まると,現在のウクライナにはポーランドが勢力を拡大してリトアニア=ポーランド王国が支配するようになりました。

一方,ロシア人などスラヴ系の民族は14世紀に自治権を与えられて,モスクワを中心に「モスクワ大公国」が成立しました。以降,ロシアの中心はモスクワへ移りました。

「キプチャク=ハン国」が衰退すると,15世紀後半にモスクワ大公イヴァン3世がモンゴル人の支配から自立しました。また,イヴァン3世はビザンツ帝国最後の皇帝の姪ソフィアと結婚すると,1453年に滅亡したビザンツ皇帝の称号である「ツァーリ」と妻の生家の紋章である「双頭の鷲」を継承しました。

その後,イヴァン3世の孫であるイヴァン4世が,1547年に親政を開始して正式に「ツァーリ」の称号を使用すると,「モスクワ大公(ロシア皇帝)」はビザンツ帝国の後継者およびギリシア正教の擁護者となりました。

その結果「モスクワ」は「コンスタンティノープル(第2のローマ)」にかわる「第3のローマ」と呼ばれるようになり,ロシア帝国の中心となりました。

今回はここまで。また機会をみつけて,その後のロシア帝国について綴ってみたいと思います。

この記事を書いた人:車田恭一

30年以上にわたり教壇に立ち、都内私立高校、河合塾、Z会東大マスター、東進ハイスクール、早稲田塾、早稲田ゼミナールなど大手予備校で世界史を担当。当塾のブログで、タイムリーな話題と歴史的な出来事を絡めて綴った「車田先生の日々是世界史」を執筆中。

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